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信仰義認と死んだ信仰3

2026.7.3 信仰義認と死んだ信仰3 

 贖いも、難しい専門知識ではありません。「私は罪の奴隷であり、神の怒りと死の支配の下にあった。しかしキリストが十字架で、私の罪を負い、代価を払い、神の前に赦しと義を与えてくださった」という、救いの現実です。

 

 だから、子どもの名前は覚えている。道は覚えている。薬は覚えている。しかし、自分が何から救われ、誰によって救われ、何を根拠に神の前に立っているのかを知らないなら、それは記憶力の問題ではありません。それは、福音がその人の命の現実になっていないということです。

 

 そのような信仰は、聖書が語る信仰ではありません。信仰とは、曖昧な宗教感情ではありません。信仰とは、罪の中で死んでいた者が、キリストの贖いと義だけにより頼み、神の前に立たせていただくことです。

 

 聖書は、これは「忘れた・覚えられない」問題ではなく、福音を聞いても信仰と結びついていない危険として語ります。「聞いたみことばも、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったので、何の益にもなりませんでした。」(ヘブル4章2節)

 

 また、救いの核心をこう言います。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」(エペソ2章1節)「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ2章8〜9節)「人が義と認められるのは、律法の行いとは関わりなく、信仰による」(ローマ3章28節)「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5章21節)

 

 つまり聖書はこう言っています。自分が罪の中で死んでいたことを知らない。自分の行いでは義とされないことを知らない。キリストが自分の罪を負い、義を与えてくださったことを知らない。それで「私は信じています」と言うなら、問われるべきは記憶力ではなく、その信仰が本当に福音に結びついているかです。

 

 このような信仰を、死んだ信仰と言います。それは、信仰という言葉は持っていても、キリストに結びついていない信仰だからです。ヤコブは言います。「たましいを離れたからだが死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。」(ヤコブ2章26節)

 

 ここでいう「行い」とは、救いを得るための功績ではありません。本当にキリストに結びついた信仰なら、必ずその命が現れるということです。

 

 罪を知らない。贖いを知らない。義認を知らない。キリストの十字架を、自分の救いとして知らない。それでいて「信じています」と言うなら、それは生きた信仰ではありません。それは、福音を聞いても、福音に結びついていない信仰です。それは、キリストの義により頼む信仰ではなく、宗教的な習慣、教会生活、感情、自己満足にすぎません。だから、そのような信仰は死んだ信仰です。キリストに結びついていない信仰は、人を救いません。

 

 聖書は、「死んだ信仰」という言葉を単なる未熟な信仰の意味では用いていません。それは、信仰を持っていると思っていながら、実際には救いに至る生きた信仰ではない状態を警告する言葉として用いています。

 

1. 死んだ信仰は「救うことのできない信仰」である

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その信仰に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2章14節)

 

ヤコブは、「そのような信仰が救うことができるのか」と問いかけます。答えは「できない」です。ここで問題なのは、「信仰が弱い」ことではありません。「信仰があると言っているが、実際には救いに結びついていない」ということです。

 

2. 死んだ信仰は、知識や同意だけで終わる

「あなたは、神はおひとりだと信じています。立派なことです。しかし、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ2章19節)

 

悪霊でさえ、神がおられることを知っています。イエスが神の子であることも知っています。しかし、悪霊はキリストに信頼しません。つまり、聖書の正しい知識があること、たとえば信仰義認の教理に同意すること、教会に所属していること、これら自体は、生きた信仰の証明にはなりません。

 

3. 死んだ信仰は、自分を欺く危険がある

「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7章21節)

 

「その日には大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』」(マタイ7章22節)

 

しかし主は、「わたしはあなたがたを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ7章23節)と言われます。

 

彼らは自分たちを信者だと思っていました。しかし、キリストとの真実な関係を持っていませんでした。これが死んだ信仰の恐ろしさです。本人は救われていると思っていることです。

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