信仰って何?

2026.5.8 信仰って何?
神を信じることを信仰と言う。
信仰とは神を心から頼らされる心である。
ただ「神はいると思う」ことではない。
ただ「イエスは十字架につけられて死に、三日葬られ、よみがえられた」と言うことがわかることではない。
ただ「聖書は正しいと思う」ことでもない。
ただ「イエスを知っている」ことでもない。
聖書は、悪霊でさえ神を知っていて、恐れていると言う。だから、知識だけでは本当の信仰ではない。
聖書の「信じる」とは、キリストにより頼むことである。
自分の正しさでは立てない。
自分の力では神の前に立てない。
自分の熱心さでも救われない。
自分の経験にも頼れない。
だから、キリストに頼らざるを得ない。
十字架で罪を負われたキリスト。
復活されたキリスト。
今も生きておられるキリスト。
この方だけが救いであり、命である。
信仰の源泉は、人間の決心ではない。
源泉とは、源であり、出発点である。
その出発点は、永遠において、神がその者をキリストに結ばれたことにある。
では、その永遠の結合は、時間の中でどう現れるのか。
神が、みことばによってその人を打たれる。
神が、罪を罪として示される。
神が、自分では神の前に立てないことを知らせる。
神が、十字架のキリストを救い主として示される。
神が、御霊によって心を新しくされる。
神が、その新しくされた心に、キリストへより頼む信仰を与えられる。
神が罪を罪として示されるとき、神はその人を悔い改めさせられる。
そして同時に、十字架のキリストにより頼ませられる。
悔い改めと信仰は切り離せない。
悔い 改めのない信仰はない。
信仰のない悔い改めもない。
悔い改めは、自分を正しいとする心から神へ向けられること。
信仰は、その神が示されたキリストにより頼むこと。
どちらも人間が自分で作るものではない。
永遠にキリストと結ばれた者に、神が御霊によって同時に与えられる恵みである。
だから信仰は、人間が自分で作るものではない。
永遠のキリストとの結合を源泉として、神がみことばと御霊によって、人をキリストにより頼む者とされる。
試練もその中で用いら れる。
神は試練の中で、自分に頼る心、自分を守ろうとする心、自分の正しさに立とうとする心を砕かれる。
そして、キリストなしには立てない者として歩ませられる。
だから信じるとは、
永遠にキリストと結ばれた者が、時間の中で、みことばと御霊によって、罪を示され、悔い改めさせられ、十字架のキリストを示され、自分ではなくキリストにより頼む者とされることである。
「生きることはキリスト」
(ピリピ1:21)
ここへ向かわされる。