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人間の罪と汚さ

2026.5.22 人間の汚さと罪

今日のテーマは、「人間の汚さと罪」です。

 

聖書は、人間を「少し悪い存在」とは語らない。聖書は、「罪の中に死んでいた」と語る。

 

エペソ2章1節である。死んでいる。

 

つまり、人は自分の力で神の方へ向かうことができない。自分で自分をきれいにできない。自分で本当に正しい者になることができない。

 

人は、「自分はそんなに悪くない」と思いたがる。でも、神の前では違う。

 

人は、うそをつく。隠れる。怒る。人を嫌う。ねたむ。自分が一番になりたがる。人のせいにする。誰にも教えられなくても、そうする。

 

なぜか。罪人だからである。

 

罪とは、ただ悪いことをすることではない。神より、自分を中心にして生きることである。

 

アダムとエバは、神のことばに従わなかった。

神は、「この木から取って食べてはならない」と言われた。しかし人は、神のことばより、自分の考えを上に置いた。「自分で決めたい」「自分で善悪を決めたい」そうして、人は神に背いた。

 

その結果、人間は神から離れた。人間は、神を愛し、神に従う者ではなく、自分を中心に生きる罪人となった。

 

だから私たちも、誰かに教えられなくても、うそをつき、怒り、ごまかし、自分を守ろうとする。

 

人は、外側だけ良く見せることはできる。

でも心の中には、怒り、ねたみ、欲、高ぶり、人を見下す心、自分中心がある。

 

イエス様は、「杯の外側はきれいにするが、内側は汚れている」と言われた。

 

聖書は、「義人はいない。ひとりもいない」と語る。

 

ここで大事なのは、「だからお前たちは終わりだ」で終わらないことである。

 

もし人間が少し悪いだけなら、少し頑張れば救われる。でも聖書は、人は罪の中に死んでいると言う。

 

だから救いは、人が頑張る話ではない。神が救われる話である。

 

神が、罪の中に死んでいた者を、キリストによって生かされる。

 

イエス・キリストは、汚れた罪人の代わりに十字架にかかられた。

 

だから十字架は、「ちょっと助ける」ためではない。完全に滅びる罪人を救うためだった。

 

自分を誇る者は、十字架の必要が分からない。

しかし、「自分は本当に罪人だ」ということを示される時、キリストの恵みが見えてくる。

 

聖書は、人間を高く持ち上げない。徹底して、人は罪人だと語る。

 

しかし同時に、神の恵みがどれほど大きいかを語る。

だから私たちは、

 

自分を誇るのではなく、キリストを見上げる。

 

救いは人ではなく、神の御業だからである。

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