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交わりを軽んじることは

2026.5.16 交わりを軽んじることは

聖書の交わりは、情報共有ではない。連絡確認でもない。打ち合わせ参加でもない。


交わりとは、キリストに結ばれた者が、同じ御霊の中で、みことばを聞き、祈り、苦しみを負い合い、励まし合い、互いに戒められ、神の前に共に立たされること。


「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

使徒2:42


だから、交わりを軽んじては行けない。他の娯楽を優先させることは軽んじること。

すなわち、それは偶像。


LINEは補助にはなる。連絡、確認、事情共有には使える。しかしLINEは、交わりそのものの代替にはならない。


特に、苦しみの中で共に祈ること、顔を合わせて励まし合うこと、互いの重荷を負うこと、みことばの前に共に置かれることは、単なるLINEのやり取りでは置き換えられない。


LINE参加は補助であって、教会的交わりそのものではない。それを交わりの代替にするなら、交わりを軽視している。


結果は、霊的孤立である。交わりを軽視すると、神が教会に与えられた恵みの手段から自分を外していく。結果として、罪への感覚が鈍る。自己判断が強くなる。忠告を受けなくなる。祈りから離れる。みことばを聞いても自分に適用されなくなる。苦しみを一人で抱え、肉の思いに流される。教会を「必要な時だけ使う場所」にしてしまう。最後には、信仰そのものを自己中心化する。


聖書はこう警告する。

「ある人たちのように、集まることをやめたりしないで、かえって励まし合いましょう。」

ヘブル10:25


また、「だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。」

ガラテヤ6:3


交わりを軽視する結果は、単なる欠席ではない。神がキリストのからだに置かれた守り、戒め、励まし、祈り、重荷の共有を軽んじること。それは、神の恵みの秩序を軽んじることである。

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