ヨエル書 3章 はじめ

ヨエル書3章
今日は、ヨエル書の 3 章に入っていくところを話していきたいと思いますが、最初にヨエル書の全体構造を確認したいと思います。このヨエル書は、2つの全く異なる民に対して語られています。これは二重構造になっています。
二重構造
まず一つの重要な民は、永 遠の選びから始まっている民で、この人たちは時のない時から神によって選ばれ、キリストの結合の中にあって、そして各時代の時の流れの中で、その歴史の時々に生まれてきています。そしてこの人たちに聖霊が注がれて、結合して、そして再生され、そのように流れてきます。
もう一つの人々は、古い契約の下に置かれているイスラエルです。それは神の摂理による歴史的な契約の民で、儀式と律法を持っていました。しかしこの人たちは、永遠の時の始まる前にある神の選びと結合にはありませんでした。
この人たちの中に、しかし神に選ばれた人たちがいました。この人たちのことをレムナントというふうに私たちは聞いています。
そして異邦人がいます。異邦人というのは、このユダヤの民以外の人たちです。この人たちは歴史的な約束を受けていない民、また儀式も律法も持っていない人たちです。しかし、この人たちの中にも選ばれている人たちがいました。永遠の時の流れの中では、選ばれている人たちは、いろんな種類の中から、いろんな人々の種類の中から導き出されて、 招き出されています。
この異邦人の招き出された人たちは、同じく真のイスラエルでした。しかしそれ以外の人たちは違います。
それ以外の人たちはキリストに属さず、たとえその人たちがキリスト者という名前を持っていたとしても、その人たちの行う教会・洗礼・信仰告白は外的であって、結合がない未信者です。福音ではなく宗教に属する人たちです。
そして、この中で私たちはこの二つの種類の人たちを見ます。それは今話しました、契約の下に置かれたイスラエル、また異邦人、また名目的クリスチャンです。どちらにしても、この人たちは、もし結合されていなければ、滅びに至る人たちです。
そして、ユダヤ人の残りの者たち(レムナント)、選ばれた人たち、異邦人の選ばれた人たち(レムナント)。この異邦人の選ばれた人たち、ユダヤ人のレムナント、この人たちを真のイスラエルと言います。この 人たちは、永遠の結合によってキリストに属する民であり、真のイスラエルというふうに聖書は言います。
イエス・キリストにあって神に選ばれた人たちはどのように現れてくるか。それが 2 章 27 節、28 節に現れてきます。
2章28節、29節
28 節のところで、私たちは聖霊の注ぎを見ます。
「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日、わたしは男奴隷にも女奴隷にもわたしの霊を注ぐ。」
この人たちは選ばれた人たちです。そこには差別はありません。この人たちは自分の意思によって生まれたのではなく、神の命によって生まれています。この人たちは、時の始まる前に選ばれていて、御子においてこの身分を持ち、そしてキリストによって一つに集められる人たちで、約束の相続を受ける人たち、御国を受け継ぐ者たちで、そして聖霊によって承認をされた者たちです。そして彼らはキリストのからだと呼ばれます。
この人たちは時の始まる前にすでに存在し、そしてこの人たちは、時の流れ、歴史の中でこの世に誕生する時、そして神の時に従って聖霊を注がれる時に、教会として現れます。
このペンテコステによって、永遠の選びとキリストにおける予定の現実、神秘的な結合によって、キリストの死と復活の成就と、そしてキリストによる召し出し、神による召し出しによって、その瞬間に、歴史の中に現れてきました。
決して、苦しいこと、悲しいことがあったから、自分で悔い改めて、聖霊を受けた、という順序ではありません。この人たちは永遠の時の始まる前に選ばれて、そして神のものとされ、神の子とされ、神の御国とされた人たちが、現実に教会として現れてきました。
そして、すべての人、老いた者も若い者も、男も女も、奴隷も自由人も、すべての種類の人、選ばれた人たちには、そこには身分の差も、男女の差も、老人であろうが子どもであろうが、何も関係なく、種類区分を超えて聖霊が注がれます。その人たちのうちにイエス・キリストとの結合が実際に起こります。それは、救いは選びによって行われているからです。
この油注ぎ、聖霊の注ぎのことを聖霊のバプテスマと言いますが、これは私たちが認知できる状態ではありません。私たちが新たに生まれる時に、私たちは何も理解することはないです。私たちが救われたことさえも、私たちには分かりません。
それは、私たちがまるで風の音を聞くように、私たちは聖霊のその 働きを何も理解できない状態の中において起こります。しかし、この聖霊のバプテスマによって、私たちの心の中心が変えられます。新しいものに生まれ変わります。永遠の結合そのものが、この瞬間に始まります。
使徒行伝では異言が現れてきます。それは結合が目に見える形になって現れている。異言は外国語です。既存の外国語であり、彼らが語ったのは神の大いなる御業です。
結合、そして照明を受けた民は、心に変革を受け、そして異言によって神をほめたたえます。それは、学ばずに、知らない本物の外国語が、その信仰者の口からあふれ出てきています。それによって神をほめたたえる。
それは、まさに聖霊のバプテスマを受け、そして神から照らされ、そして異言によって宣言をする、この流れが実際に現れているということです。それは、福音の訪れを神が意図的に見せる、そのために起こっています。
それは、 信仰義認によって人は救われるという、奇跡を伴う時に必ず起こってくる神の御業です。長血の女も、そしてゲラサの男も、彼らは神の御業によって救われた時に、彼らは「奇跡を見せるため」ではありません。彼らの心の奥に起こった、心の再生がその人に現れてくる。それが奇跡をともなってきています。
その当時、長血の女もゲラサの男も、この世から追い出されていました。この世から見捨てられた人々でした。しかし神は、そのような者たちを、身分によらず、男女によらず、年齢によらず、神の選んだ者を救うという、その神の救いの原則を理解させるために、奇跡を伴って現しました。
そして、異言の奇跡が行われた時には、多くの種類の人々がいました。何カ国語も語る人たちがいました。そして、その人たちは、「この言葉は私たちの田舎の言葉だ。この言葉を誰が知っているんだ」と言いました。
それは、神の救いが選ばれた民に対して行われている、その救いが全ての種類の人に区別なく、その人たちを救うという現実を宣言するために行われました。
ですから、カリスマ運動が黙らないという現状は、彼らはこの救いの構造を見ずに、現象だけを見て異言を超自然的な能力だとし、霊の注ぎを感情の高揚に変えたり、聖霊の働きをパワーとして誤解したり、人間の祈りや決心を原因にしてしまう。つまり、神のこの素晴らしい主権的な救いを見えなくさせているのです。
ヨエル書の 2 章 28、29 節を、またヨエル書自体を正しく理解するためには、キリストを土台にしなければいけない。その救いはキリストを土台にしていなければならない。土台というのは、すべての救いはキリストから来ているという、すべては神の支配の中で行われているという、この土台に立たなければ、人間中心主義的な思想がそこに入ってきます。
ですから、人間中心的な思想を持った人たちに福音をいくら語っても、彼らは福音を理解できません。なぜなら彼らは、神の主権的な働きを受け入れないからです。
そして、この主権的な現れは、このペンテコステの、霊が注がれた日は、一人一人の経験ではなく、永遠の教会が現実に、時の流れの中に現れてきたという日です。
第一コリントでは、「一つのからだにバプテスマされた」と、このように言っています。ギリシア人もユダヤ人も、奴隷も自由人も何もない、一人の人だ。ここも、「すべての人」というのを、種類と区別なくと言っています。決して、一人一人のすべての人類が等しく救われるということは言いません。
もう一度言いますが、このペンテコステのスタートは、永遠の選びと結合の現実がペンテコステを通して教会として表舞台に現れた、という意味であり、永遠の結合そのものが、この時点で初めて「現れた」。生じた、ということじゃなく、永遠の結合は時のない時にすでに行われていて、その中において選ばれた人たちが時の流れの中に生まれて出てきます。そして、その中においてペンテコステが、教会として人々の心を変えていきます。
ですので、この永遠の結合を持つ人たちがこの地上に現れ、そして教
会として存在しない、そのような「福音」は決してありません。もしこのことを語らない福音があるとしたら、それは福音が道徳に変わり、ペンテコステは「現象」になり、聖霊はパワーになって、教会はただの組織になってしまいます。そして永遠の時の中の教会は実体を失い、それを語らない福音はもはや福音ではない。
ですから、いわゆるこの 28、29 節は、ユニバーサリズムを否定し、異言の誤読を否定し、霊の注ぎ、それは賜物ではなくキリストの内住なんです。そして体験ではなく、教会の出現なんです。力ではなく、イエス・キリストとの結合が現れるということなんです。現象ではなく、臨在的な革命です。これが本質です。これを語らなければ福音ではなくなります。
2章まとめ
2 章のまとめは、「裁き、砕き、照明、憐れみ、回復、御霊の注ぎ、救い」という救いの全構造を、神中心で描くことです。もっと言えば、ヨエル書は全体がそうです。ヨエル書の全体は、裁き、砕き、照明、憐れみ、回復、御霊の注ぎ、救いは、神が行っている。そしてヨエル書の全体構造は二重構造になっていて、選びの民、そして選ばれていない人々が、同じ世界に共存していて、そこに神の裁きが絶えず来ています。絶えず来ています。
歴史を通じて、私たちはイスラエルという国に何度も何度も神の裁きが訪れているのを知っています。そしてこの神の裁きは、イスラエルだけではなく、全世界に訪れています。そしてその最終は終末です。しかしそこには二重構造があり、選ばれた民たちと、そして選ばれていない民たちがいて、その二重構造を神は線を引いていきます。それはその時代時代において裁きが始まっており、そして選ばれている人、羊と、そして選ばれていない人たち、ヤギを分けます。絶えず時代時代において、すでに行われています。裁きはすでに来ています。
そして、このどの段階でも、どの砕きの段階でも、照明の段階でも、すべてのこの中心は神です。そしてキリストとの結合が源泉であり、キリストに属さない人々は裁きの中で滅び、真のイスラエルは照明を受け、神の御国に向かって行きます。
主の日がいつも迫っています。そしてそれは将来のことではない。今もそうです。今も神の裁きは私たちの上にあります。しかし神が選んだ人々にとって、この裁きは試練となり、この裁きはキリストを深く知り、そして清められていく聖化の過程に変わります。
そして、この裁きは試練となり、その試練は決して、選ばれた民たちが耐えられない、そのような試練とはなりません。この裁きによって、またこの試練によって、選ばれていない者は滅んでいき、選びの民たちの心の中心はイエス・キリストとの結合に根付き、そこから命があふれ、そして悔い改めを生み出し、そして信仰を生み出し、神ご自身の妬みと憐れみによって回復されていきます。
それはすべて神の完全な主権の中です。ここに人間の意志、人間中心的な 要素は一ミリも存在しないと、ヨエル書は宣言しています。
ヨエル書の 3 章の中核は、主が諸国を御座の前に招集します。すべてのものを裁き、主に属する者を最終的な安息へ導き、最後には主ご自身がシオンに住まわれるという、神の主権と裁きと御臨在が完成することです。
ヨエル書の 1 章は歴史の裁き。私たちはイスラエルの歴史の裁きを 1 章に読みます。
2 章は、心を引き裂く照明と、神の注ぎを語っています。霊の注ぎを語っています。
そして 3 章は、すべての裁きが最終形へと達成する主の日、主の裁きの頂点です。
すべての段階において、悔い改めも、回復も、裁きも、すべて神が行っていると宣言されています。人間中心の要素は一切ないのです。
ヨエル書 3 章には二つの柱があります。
一つの柱は、3 章 1〜15 節。諸国の民の招集と最終的な裁きです。3 章はこう始まります。3 章 2 節で、主ご自身が諸国の民を呼び集める。そして次に、主が裁きの座につく。主がご自身の敵に対して、これまでのすべてを裁く。
ここで主語は完全に主です。諸国を裁くのは人ではありません。ここで描かれているのは、人の選択や努力の結果ではなく、主が国々を呼び出し、彼らの行いを裁くことです。
マッカーサーは、「主の日」を「主が世の罪人すべてに燃える怒りを注がれる恐るべき日だ」と表現します。それがここで成就する。歴史の裁きが究極の裁きに移り、そしてここで全体の、いわゆるその全体の構図が一つになります。
1 章のいなごの裁き、これは歴史の裁き、実際に起こっていること。2 章の軍勢、主の日は、神が集めた軍勢が主の日に裁きを行っていくという予言です。そして 2 章後半では御霊の注ぎがあります。そして 3 章では諸国の民の裁きがあります。これは歴史、そして教会の時代、そして終末という流れを通して、主がご自身の救いと裁きを貫くストーリーがここで完成します。
世界は、人間の自由意志で動いていません。すべては主の裁きに向かう、神の主権の御計画です。
主の裁きは、二つ目の柱、シオンの永遠の祝福につながります。すべては主の日に向かう神の御計画であり、裁きの頂点はシオンの永遠の祝福になります。主ご自身が民と共に住まわれる。3 章の後半は、神が御怒りで世界を揺さぶった後に、主ご自身がご自分の民、選ばれた者たちを永遠の安息に導く場面に転換します。
主がシオンから吠える裁きです。そしてシオンに酒どころを設けら れる。救いです。山々はぶどう酒をしたたらせ、丘々には乳が流れ、主ご自身がシオンにとこしえに住まわれる。ここの中心にあるのは、中心が「何を得るか」ではなく、神ご自身が共に住まわれること、すなわち神ご自身との結合にあります。
スプロールは言いました。福音の中心は、益や何かギフトではなく、キリストご自身である。それは真理と完全に一致します。天の祝福の中心は、イエス・キリスト、また三位一体の神と、選ばれた信仰者たちとの結合、結びつきが、実際に現実となるというところにあります。
3 章 1 節で、こう言います。「その日、わたしがユダとエルサレムの繁栄を回復するとき。」回復の主体は民の悔い改めではないです。完全に神が回復を開始するタイミングの宣言であって、ここで神は歴史の審判の座において裁きの場を開かれる。
3 章 2 節で、「わたしはすべての国々を集め、そこで彼らを裁く。」この裁きは単なる国際政治的な終末ではない。ディスペンセーションとは違います。この中心は、古い契約の下にある名ばかりの民 と、異邦の民を裁く神の座であります。
「わたしの地を分けたからである。」それは地政学的な現代のパレスチナ情勢を直接示すのではなく、神が定めた契約の領域を、偽りの民が勝手に所有していた罪の裁きです。
3 章 3 節、「彼らはわたしの民をくじ引きにし…」。ここで言う「わたしの民」は、血統ではなく、知識でもなく、儀式でもなく、真に選ばれた、キリストと結合している民のことです。古い契約のイスラエルは、しばしば真の契約の民を迫害してきたんです。
3 章 4〜6 節で、ツロ・シドン・ペリシテという名前が出てきます。これは実在の歴史的民族なんですけれども、それは象徴であり、このツロ・シドン・ペリシテは、偽りの宗教、偽の教え、そして外面的なキリスト教、外面的なユダヤ人、外面的な人たちを指しています。そして、神の民を取り込んで利用しようとする勢力、そのような人々を代表しています。
今日的な話として適用すれば、未整のクリスチャン、名ばかりの信仰者、教会を自己実現の道具とする運動や、また、あらゆる人間中心主義の宗教を含みます。
神は報復を「検討」されるのではありません。3 章 7〜8 節。必ず実行します。必ず、神を自分たちの宗教の神として利用してきた者どもを、必ず裁きます。
そして 3 章 9 節。「国々の中に伝えよ。戦いを整えよ。」ここも誤読が多いです。支配神学や霊的戦い神学は、「霊的戦いを準備せよ。神の軍勢に属せよ」と読みますが、文脈は逆です。神が裁くために、神が敵を一箇所に集め、神の刈り入れが行われると言っています。つまり、戦いの準備をしているのは人ではなく、神が敵を裁きの場に整えておられるのです。
3 章 10 節、「弱い者よ、『私は勇士だ』と言え。」今、「弱い者よ、叫べ。『勇士だ』と。」これは、自分を励まして現実を変えるための宣言ではないです。
人 間中心主義では、この節を根拠に「宣言すれば霊的に現実が変わる」という教えが広まっています。典型的な実例として、“Give Thanks” という賛美の歌が歌われてきました。この作者のヘンリー・スミスという人は、「人の宣言には力があって勝利を生じさせる」という、そういう考えが前提にあります(意識しているかどうかはともかく、実際の構造はそうです)。
これは、神が人の心を照らして砕いて、砕いて照らして、悔い改めを神が生み、力を与えるという、神の主権とは全く異なります。
この聖句を切り取って利用し、「宣言すれば現実が変わる」とさせる。それは神の主権ではなく、人間中心主義が働いています。ヨエル書 3 章 10 節の本来の意味は、信者に向けた励ましではないです。これは、神が諸国の民と偽りのツロ・シドン、そのような性質を持つ民たちに対して向けられた皮肉・あざけりです。
支配神学の者たちに対して、あざけって言っています。「弱い者よ、『勇士だ』と言ってみよ。わたしの裁きの場に立てるか。ツロ・シドンの民よ、言ってみろ。弱い者よ、『勇士だ』と言ってみよ。」つまり、人が「勇士だ」と宣言することが信仰の力になるのではなくて、神は虚勢と人間中心主義の宗教性を暴くために、このように言ってい るんです。それは神の裁きがここにあるということを言っています。
「勇士だ」と支配神学の人間が宣言することで強くなる、という読みは、人間の声を原因とする人間中心主義であり、神が壊し、照らし、悔い改めを与えるという聖書の構造とは、全く一致しません。
ヨエル書 3 章 10 節は自己暗示ではなく、神の裁きの前で、偽りの宗教の民・偽りの民の虚勢を暴く御言葉であります。
お祈りします。
主よ、私たちの中にも、私たちの周りにも、主よ、いつも人間中心主義の思い、また偽りの宗教、外側だけのクリスチャン、心に再生がない者たちも多くいます。主よ、どうか助けてください。私たちは叫び求めます。主よ、私たちも以前そうでし たから、どうか助けてください。私たちは本当に無力です。主よ、どうか助けてください。
愛するイエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りいたします。アーメン。
◆3章1節
「その日、わたしがユダとエルサレムの繁栄(囚われ人)を回復す るとき」
“回復”の主体は民の悔い改めではない。
完全に 神が回復を開始するタイミングの宣言。
ここで神は、歴史の審判座において“裁きの場”を開こうとしておられる。
◆3章2節
「わたしはすべての国々を集め、…そこで彼らを裁く。」
この裁きは、単なる国際政治の終末ではない。
中心は:
古い契約下のイスラエル(名ばかりの民)と異邦の民をともに裁く神の座。
「わたしの地を分けたから」とあるが、
現代パレスチナ情勢を直接指すのではなく、
神が定めた契約の領域を、偽の民が勝手に所有していた罪の裁き。
◆3章3節
「彼らはわたしの民をくじ引きにし…」
“わたしの民”= 血統ではなく、真に神と結ばれた者(永遠の結合の民)。
古い契約下のイスラエルはしばしば、真の契約民を迫害してきた。
◆3章4節~6節
ここで名指しされる ツロ・シドン・ペリシテ は、
実在の歴史的民族であると同時に、象徴的に:
偽りの宗教
外側だけの契約民
神の民を利用する勢力
を代表している。
今日的適用として言えば、
偽クリスチャン(名ばかりの信仰者)、
教会を自己実現の道具とする運動 や、
さまざまな人間中心の宗教性を含む、
「神の名を用いて神の民を利用する」あらゆる勢力を思い起こさせる。
レベル | ヨエル3章の実体 | 今日への適用 |
歴史 | 実在のツロ・シドン/エジプト・エドム | 古代イスラエルを苦しめた列強 |
象徴 | 神の民を利用し迫害する諸国 | 外形契約民/人間中心の宗教勢力 |
◆3章7節~8節
神は報復を“検討される”のではない。必ず実行する。
古い契約下のイスラエルは、神を“自分の宗教の神”として利用した罪を必ず裁かれる。
◆3章9節
「国々の中に告げよ。戦いを整えよ。」
ここも誤読が多い。支配神学や霊的戦い神学は、霊的戦いを準備せよ、神の軍勢に属せよと読みやすいが、文脈は逆。
神が裁くために
神が敵を一か所に集め
神の刈り取りが行われる
つまり、戦いの準備は人ではなく、神が敵を裁きの場へと整えておられる。
◆3章10節
「弱い者よ、勇士だと言え」は、自分を励まし、現実を変えるための宣言ではない。
人間中心主義では、この節を根拠に「宣言すれば霊的現実が変わる」という教えが広まり、その典型的な実例として「Give Thanks」の歌詞が用いられてきた。
Henry Smith の歌詞には、“人の宣言が力や勝利を生じさせる”という前提が存在する。
これは、神が心を照らし砕き、悔い改めを生み出し、力を与えるという神の主権と異なる。
聖句を切り取り、宣言行為を原因とするかぎり、そこには神の主権ではなく人間中心主義が働いている。作詞者が自覚していたかどうかに関わらず、歌詞自体がその神学構造を体現する。
ヨエル3:10の本来の意味
この節は、信者に向けた励ましではない。文脈は、神が諸国民と偽りの契約民に対して向けられた皮肉・嘲り。
「弱い者よ、勇士だと言ってみよ。わたしの裁きの場で立てるのか。」
つまり、人が「勇士だ」と宣言することが信仰の力になるのではなく、虚勢と人間中心の宗教性を暴くための神の言葉。
「勇士だと宣言することで強くなる」という読みは、人の行為を原因とする人間中心主義であり、神が照らし悔い改めを与えるという聖書の構造とは一致しない。
ヨエル3:10は自己暗示ではなく、
神の裁きの前で偽りの民の虚勢を暴く御言葉である。
◆3章11節、12節
神が敵を「呼び集める」。終末の戦いの主体は人ではない。終末の戦いは、神が敵を一つに集め、神が刈り取るための場。
◆3章13節
「かまを入れよ…満ちた」ここで神は、救いの刈り取りではなく、裁きの刈り取りを命じている。
◆3章14節
「決断の谷」“人が決断する谷”ではない。神の決断(裁き)が下る谷。人間の側の決心を呼ぶ場所ではない。
◆3章15節、16節
宇宙の揺れ、日月の変化、天体の暗黒。すべて神の到来のしるし。神の声が地を震わせる。
◆3章1 7節
「わたしは主…あなたがたのただ中に住む」
旧約における キリストとの結合の影。神は“民の生活の中心”に住む。
古い契約下のイスラエルはその臨在を恐れ、真の契約民はその臨在に安息を得る。
◆3章18節
「その日、ぶどう酒は滴り…」
回復の豊かさを示すが、中心は物質的繁栄ではない。結合の民に与えられる霊的回復のしるし。古い契約下のイスラエルにはこの恵みはない。
◆3章19節
エジプト・エドム は、実在の民族以上に、神に敵対する宗教的勢力全体の象徴。
◆3章20節、21節
神の民は永遠に立ち、神は敵を永遠に裁く。ここでの「民」は、血統的イスラエルではなく、真に神と結合している者だけ。
◆3章まとめ
3章は“神が敵を集め、裁き、真の契約民を守り、敵を滅ぼす”という終末的裁きの宣言。
3:10 の「弱い者よ、勇士だと言え」は、
「信者に自己宣言させて強くなれ」とするための御言葉ではなく、神の敵と偽りの民の虚勢を暴露する神の皮肉である。人間中心的な“ポジティブ宣言”神学への利用は完全に誤用である。
それは3:4-6で名指しされる ツロ・シドン・ペリシテ ように、実在の歴史的民族であると同時に、
象徴的に:
偽りの宗教
外側だけの契約民
神の民を利用する勢力
を代表している。
人間中心的な神学、教え:
フリーグレイス神学
支配神学
霊的戦い神学
繁栄神学
信仰の言葉運動
表面的福音主義
終末論を誇大化して福音を歪める教え
結合のない古い契約下のイスラエル
あらゆる人間中心主義を福音とすり替える教え
「これは象徴的適用であり、歴史的ツロ・シドン/エジプト・エドムと1:1対応させているのではない」「ヨエルが直接それを指していた」という意味ではなく、ツロ・シドンの姿に重ねて見るべき今日の私たちが注意をしなければならない適用を示した。
真の民とは:キリストとの結合を源泉として生まれ、神の照明によって悔い改め、神に守られる者。
「ヨエル3章は、聖なる神が諸国を御座の前に召集し、そのすべてを裁き、ただ主が御手で導く者を永遠の安息へと導き、最後には主ご自身がシオンに住まわれると約束される章」
裁きも救いも、 主の日の到来も、永遠の祝福も、全て主の主権の中で進む。人間中心の要素は一切存在しない。