ヨエル書 2章28節、29節

ヨエル書2章28節、29節
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それではヨエル書の今日は2章の28節と29節をやりたいと思います。
これは皆さんよく知っている箇所ですが、28節「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は予言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日、わたしは男奴隷にも女奴隷にもわたしの霊を注ぐ。」
この箇所は、まず全体の構造からいくと、ヨエル書の1章、2章は裁きについて話しています。カミイナゴ、イナゴ、バッタ、ワカムシ。
この裁きが、1章では歴史の中において実際にイスラエルに起こった裁きです。そして2章はこれから起こることを示しています。
それは神が軍隊として、神が先頭に立ってイスラエルを裁くために行ったことです。
この前提で、まず私たちが理解していきたいのは、ヨエル書の1章では、特に1章2章も同じなんですが、4つの段階の裁きがあると言っています。
ヨエル書の1章を見ると、神の裁きは、いきなり全滅させたわけではありません。いきなり全滅ではなく、神は段階を踏んで外側から裁いていかれます。
第一段階は生活の揺さぶり、収穫への打撃。1:4では、いなごが次々と作物を食いつくす。
まず揺さぶられるのは、いつもの生活の安定。仕事が思うようにいかない、収入が不安定になる、生活の余裕が失われていく。
第二段階に入ると、将来の希望が消える。1:17を見てください。ここでは何が起こってくるかというと、
1:17では将来の希望がなくなると書いてあります。それはなぜかというと、「種が土の下で干からびてしまう」と書かれています。これは今苦しいだけではなく、将来の希望そのものが見えなくなるという段階です。
人はよくこう考えます。「今苦しいけど努力すればいつかなんとかなる。」
しかし、神はここで、「いつかなんとかなる」という思いを砕かれます。
「なんとかすれば立ち直せる」という人間の思いを壊されます。
そして第3段階の裁きでは、制度や仕組みが壊れます。これは17節の続きで、「倉は荒れ果て、穴蔵は崩れた。穀物がしなびたからだ」と言っています。
これは経済の仕組みや社会の仕組み、宗教的な管理システムといった祝福を蓄える器が壊れていく段階です。「ちゃんと制度さえ整えば」「組織さえしっかりしていれば」。こういう考えを神は打ち砕かれます。
そして最後の第4段階がきます。この第4段階の裁きは、礼拝そのものが停止されます。
1:18を見てください。「ああ、なんということか。家畜がうめいている。牛の群れはさまよう。牧場がないからだ。羊の群れも滅びる。」と書いてあります。
羊の群れも滅び失せます。羊は単なる財産ではなく、生贄の中心でした。つまりここでは、犠牲となる礼拝の犠牲となるものがいなくなったと言っています。
形だけの礼拝、習慣としての信仰、世的(外的)な教会生活、それらが神の御前で止められるところまで追い込まれます。
ここまでを見ると、神の裁きは、生活、将来の見通し、制度と仕組み、礼拝の形、これらを段階的にゆっくりと壊していきます。
目的はただ一つです。外側の宗教を砕いて、真実にイエス・キリストに結びついた民だけを残すことです。
神はこの世の物質的な繁栄、人間中心の思想、表面だけの信仰者、文化だけのキリスト教、 外的な教会を裁いて砕かれます。
神は外面的な宗教制度を破壊します。そして真の結合による命だけを残されます。
同じ状況の破壊の中、裁きの中で選ばれた者には聖化、試練、信仰の純化、精錬。
滅びる者には絶望、固くなさ、終末的な滅びが進行します。
外から見ると、外面的には区別はつきませんが、神は魂の中心で分離を行われます。
ここまでが私たちが1章2章のところで理解しなければいけないところです。ですから私たちクリスチャンにとってもこれは全く同じことであって、私たちは魂の中心で神に分離されます。
本物と偽物が魂の中心で分離されます。そ してヨエル書の1章2章の裁きから、ペンテコステに行きます。
先ほど言った通り、魂の中心で分離され、礼拝の停止が行われ、ヨエル書2章28節29節で聖霊の注ぎが起こります。
ではここで行われる聖霊の注ぎというのはどのようなものなのか。
これはとても重要です。
ここは何かというと、なぜ私が1章2章の裁きのところを皆さんにもう一度お話したのか。それは、この裁きの後に悔い改めが起こっているということを語りましたが、この悔い改めを間違って捉える教えがあるからです。
この悔い改めを見誤るとどうなるか。それは人間中心主義に入っていきます。必ず人間中心主義、決心主義、リバイバル主義へと堕落します。
決心主義・リバイバル主義がここを誤読するとどうなるか、間違って読むとどうなるか。
彼らはこういうふうに書を読みます。
「裁きがあった → 民が悔い改める → 神が霊を注ぐ → そこから教会や強い伝道が生まれる」
この構造では、教会は霊が下られた結果、そしてそれは人間の悔い改めに対する報酬です。
すなわち、人間側の霊的状態の成就として扱われています。
つまり、教会が原因ではなく、教会は結果の側に追いやられ、原因は民が心から悔い改めるという意思の力、そして民が悔い改めて主に助けを求めるとなった時に神の霊が注がれる、という構図になります。
正しい線引きをすると、教会はそのような流れ(裁き→民の悔い改め→聖霊)で生まれた「結 果」ではありません。
教会は救いの結果として歴史に現れています。
聖霊は、教会を作り出すために注がれており、悔い改めが聖霊を呼び込むのではありません。
ここが重要な点です
聖霊は、結合の民、真のイスラエルを歴史に可視化するために注がれています。悔い改めは、その結合・再生が適用された結果悔い改めが起こるのであって、悔い改めを人間がした結果、聖霊が下られたわけではありません。
この理解はとても重要です。
この理解は、「信仰が先か、再生が先か」というテーマにあります。
信仰が先か、再生が先か。
神が聖霊を下さって私たちを変えた結果、私たちは信じる者になった、というのが聖書が言っていることです。
1 この理解が打ち砕くものは、決心主義です。これは、決心主義への反撃です。
間違いは、「人間の悔い改めが神の霊を与え、そして教会が誕生する」。
正しい理解は、「永遠の結合に基づく聖霊の注ぎ」。
永遠の結合に基づいて、この永遠の結合が時の流れの中で、
→再生が起こり
→悔い改めが生じ
→その民が教会として歴史に現れる
このように、決心主義とは完全に逆転します。
2 リバイバル主義の間違いを遮断します。間違いは「民族的悔い改めが起きたら、日本にリバイバルが起こる」と言う。
しかし正しい理解は聖書の理解は、聖霊の注ぎが原因になって選ばれた者たちが悔い改める。民族的悔い改めが起きたら日本にリバイバルが起こるのではなく、聖霊の注ぎが与えられて、その結果、選ばれた者が悔い改める。
もし悔い改めが条件であれば、神の選びは無視されます。
3「教会が手段であり、個人の救済が目的」という発想を破壊します。
間違い:個人が救われてまとまる結果、教会がある。
正しい理解:神が永遠の時の始まる前に結合した民が教会であり、それが歴史の中で現れる。
この預言書(ヨエル書)の読み方そのものが変わります。神の主権と、人中心の違いで全く変わります。
人中心の場合は「断食して涙を流し、主よ来てくださいと言うと聖霊が注がれる。」
聖書の構造は「神が動かれる」。
裁き → 民が分離される → 結合の民に霊が注がれる → 信仰と悔い改めが現れる。
この結合の民に霊が注がれるのは時中(歴史の時間内)の話。この分離された結合の民は、永遠の時の始まる前に、既に教会として選ばれている。主体は神であり、人は結果として動く。
裁きと聖霊の注ぎの関係を、神中心の構造で見なければならない。
霊の注ぎは裁きの後の出来事ですが、それは原因ではありません。
霊の注ぎは裁きの後の出来事として書いてありますが、原因ではありません。「悔い改めが起きたから」「断食をしたから」「祈ったから」霊の注ぎがあったという、そういう条件によって聖霊が来るのではありません。
聖霊の注ぎは、永遠の選びに基づいて、選ばれた人たちに時の流れの中で起こる救済的な招きです。裁きはそのために歴史を整える手段であって原因ではありません。
聖霊の注ぎの目的というのは、結合の民を時間の中に表させることです。ヨエル書2章28節の聖霊の注ぎの本質は、個々の人の体験ではありません。賜物が与えられることや、力の発動が中心ではありません。
ヨエル書2章の28節は、キリストと永遠に結びつけられた民が歴史上に現れる出来事です。
その人たちは時の始まる前からすでに選ばれており、その人たちが 教会として招かれた民です。歴史上に共同体として現れること。これがヨエル書2:28の本質であり、これがペンテコステで成就します。
ですからエペソ1章13節で、約束の聖霊は結ばれた者に対しての証印になっています。
第一コリント12章13節は「同じ霊によって一つのからだにバプテスマされる」。
使徒2章は神に選ばれている民が、教会として時間の中で立ち上がる出来事です。
聖霊の注ぎは、滅びる者と選ばれた者を分けます。
ヨエル書は最初から一貫して語っています。ここには二種類の民がいます。
1. 古い契約の下に生きている血筋のイスラエル
2. キリストと結合している真のイスラエル
ペンテコステは個人的で情緒的な霊的経験ではありません。これはもっと大きい出来事です。聖霊の注ぎとは、教会が歴史において可視化された瞬間です。「人が信じたから、応答したから、祈ったから聖霊が来た」のではない。
そうではない。祈ったからではない。キリストが昇天して、父から約束の聖霊が遣わされた。すでに永遠に存在していた、時の始まる前に存在していたキリストとの結合が、歴史上に現れたという出来事です。
裁きと聖霊の注ぎと永遠の選びについて語ります。
もう一度言います。
「裁き → 悔い改め → 聖霊(救い)」という理解は人間中心主義です。
それは聖書の構造ではありません。
悪いことが起こり、人が悔い改め、そして聖霊が来て救われる。この考えは間違っています。
聖書が一貫して言っていること、それはエペソ書に戻ります。すべては永遠の時の始まる前の選びに戻る。永遠の時の始まる前に選ばれたという前提に立つと、救いは人間の意思ではないということが完全に見えます。
それは、時の流れの中で、この永遠の創世記前に選ばれた民に、聖霊が時間の中で注がれている。それは教会が歴史の中に現れてくるという出来事。
そしてそれは枝が継ぎ木されてキリストの体となるという理解になります。
ここで私たちが特に理解したいのは「永遠の教会」という考えです。教会は時の中で突然生まれた存在ではない。
教会は単に「私が選ぶ」ものではない。「 私は救われてバプテスマを受けて、どこの教会に行ったらいいんですか?祈ってください。」「私には行く教会がありません。」「教会に行かなくても自分で礼拝を守って祝福されています。」これらの発言は、選びの理解を持たない発言です。
永遠のご計画の選びとして、教会は存在している。そして歴史の中で現れた、という真理はエペソ1章に示されています。
永遠の起点、時の始まる前の選びが1章4節。「世界のもといが据えられる前から、神は私たちをキリストのうちに選ばれた。」起源はペンテコステではない。起源は永遠の選び。
目的は御子における子としての身分(1:5)。
「イエス・キリストによって御自分の子にされようと、あらかじめ定められました。」
歴史の完成点はキリストに一つに集め られる(1:10)。
教会の完成はキリストにある一致。
成立の方法は、約束の聖霊による証印(1:13–14)。
聖霊は結合が歴史に適用された証印。封印とも言えます。一度結ばれたら永遠です。
教会とは、永遠の時の流れの中で定められた人々が、歴史の中に聖霊を注がれて教会として現れた姿。
ヨエル書の1章2章の裁きの後に来る聖霊の注ぎ。このペンテコステ、結合の民の歴史的な出現は、人が悔い改めたからではない。
すでに永遠の昔から基礎にあって選ばれている人たち、すでに神と結合されている人たち。この人たちが聖霊によって時間の中で命を受けて歩み始めた、それが歴史上の現れ。
ヨエル書で語られている四段階の裁きは、歴史を通して偽りの民と選ばれている民を分離するための神の摂理。
滅びに向かう者と永遠の命に向かう者の裁きは今も続いている。
これはヨエルの時代だけでなく、今も現在も起こっています。
終末に、再臨の日に最終的な分離が明確になります。
悔い改めは、聖霊による結合の適用と再生の結果であって原因ではない。「悔い改めたから聖霊をいただく」のではない。
聖霊によって、私たちは時の始まる前にキリストと結合されていた、その永遠の結合が、神の定めた時に私たちの内に現実に起こる。再生の結果、悔い改めが現れる。それは教会の出現です。私たちはその現れを目撃しているのです。
この交わりは、私たちが計画して起こったものではありません 。私たちは出現したのです。
裁き → 悔い改め → 聖霊の注ぎ
この並びは完全に人間中心主義であり、聖書と矛盾した間違った教えです。
リバイバル主義はこう言う:「日本民族が悔い改めたら聖霊の注ぎが起こる。リバイバルが来る。」これは聖書が言っていることではない。間違っています。
永遠の時の始まる前の結合が、歴史に現れる出来事として表面に現れているのが聖霊の注ぎです。
源泉はキリストとの結びつき。これは神が行っていることです。教会はその現れです。人の反応は、その流れの中で出てきた結果です。
ではここで再び2章28節に戻ります。
「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子娘は予言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日、わたしは男奴隷にも女奴隷にもわたしの霊を注ぐ。」
ここでユニバーサリズム(普遍主義)を破壊します。
「すべての人」という言葉を、人類全員と解釈する間違い。
ここに(本文中で)書いてある「すべての人」の内容が示されています。息子、娘、老人、青年、男奴隷、女奴隷。これは「すべての種類の人」を表しており、すべての個人ではない。選ばれて人々の構成すべて種類の人々です。
救いは、神が時の始まる前に選び、キリストにあって結合された者に対して、時の流れの中で聖霊が注がれるという預言に基づいています。