ヨエル書 2章 後半

ヨエル書の2章後半メッセージ
今からヨエル書の2章の続きを話していきます。
2章の続きです。2章の11、12、昨日のメッセージの最後で話しました。この11、12で主はご自分の軍隊の先頭に立って声を上げられます。
すなわち、1章のところで神は、主の日としての裁きを始めています。
1章は、神が、いなごの大軍でイスラエルを襲わせます。
これは、2章における神の裁きのプロトタイプです。そしてそれは本物のいなごでした。
そして本物のバッタがイスラエルを食いつくしていく。そのようにスタートします。
しかし、2章ではっきりしてくるのは、2章は将来に対する予言です。2章のところでは、神のいなごと言われているのは、実はいなごのようなものであって、それは黙示録まで続いてきます。この中において神は不従順なイスラエルを裁いていきます。
ヨエル書から、神の福音構造の中において、二通りの人たちがいることがはっきり分かります。それは選ばれている人たちと選ばれていない人たちです。
ヨエル書の中において、形骸化したイスラエルの人々の信仰。これを神は、この人たちをさばいていくという状態になっていますが、この、ヨエル書で書かれている形骸化した信仰は何を意味しているかというと、それは選ばれていない人を意味しています。
そして、真のイスラエルと呼ばれる人たちは、イエス・キリストとの永遠の結合の中にある人たちを示しています。
この二つの人たちがいる中において、神はその同じ世界において裁きを行っていきます。
一方の人たちにとっては、それは滅びの裁き。そして選ばれている人たちには、それは命へ向かう試練になります。
私たちの生活において多くの苦しみ、また失敗、さばきが発生しますが、それは選ばれている人にとっては永遠の命に向かう神の試練になります。それが目的です。しかし選ばれていない人たちにとっては、それは永遠の滅びに向かうさばきになります。
そして12節で、神は言います。
「心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」
これは人間中心主義の読み方で、多くの人たちは理解します。自分の心で悔い改めて、主に立ち返る、または、涙を流して、「私は悪かった」と言って、立ち返っていくと読むのです。
しかしこれは、聖書の救いの構造に 矛盾しています。
帰る力は人にはないということを、聖書ははっきり言っています。罪人の心は霊的に死んでいて、神が再生し照明を与えなければ、誰一人主に帰ることはできません。イエスはこう言いました。「父がわたしのもとに引き寄せなければ、誰もわたしのところに来ることはできません。」このことをヨエル書は話しています。
ですから、「人間にできる」という意味は全くありません。父が引き寄せる、神が砕きと照明を与えられる時、砕かれた心は神に帰るという現実の中に生きていきます。
そしてパウロは言います。「私たちは新しい創造である。」
2章の13節に、
「心を引き裂け。あなたの神、主に立ち返れ。
主は情け深く憐れみ深い。怒るのに遅く、恵みに富み、災いを思い直してくださる。」
という言葉があります。
心を引き裂く人は誰一人もいません。そんなことができる人はいません。
形式的なユダヤ教の宗教では、衣服を引き裂くというような、偽りの契約の民が行うということを見せていますが、
ここで引き裂くというのは、真のイスラエルには、神からその人たちの内側に対して、その人たちの心に対して、心を引き裂くように神が行う。そして、心が引き裂かれる。
神は命令します。
しかし、神は「引き裂け」と言いながら、神はあなたの心を引き裂きます。そしてあなたの心を引き裂けと命令します。
そして、「もしかすると神が思い直してくださる。災いを思い直してくださる。もしかすると……」と14節で同じように、
「もしかすると主が思い直して、あわれみにより、祝福を供え物としてあなたがたに残しておいてくださるかもしれない。」
人間中心主義の考え方は、「私がもし悔い改めたら、神が憐れんでくれる」、こういうふうに思います。そして実行します。だから、悔い改めが自分の行いとして現れてきます。
「ああ、私は悪いことをした。」そして自分の心をセンチメンタルへ。自分の心をわざと悲しませるモードに持って行って、そして演じるのです。悔い改めを。演じなければ、その人は悔い改めが与えられていないのです。
しかし、神の悔い改めは、心の奥底から溢れてきます。それは演じられるものではない。
「主が憐れむなら悔い改めが起こる」。
原因は神の憐れみ 、そしてこの悔い改めは、神の憐れみによって起こる。
結果として悔い改めが起こる。福音の秩序はいつもそうなんです。神が行って、結果私たちが悔い改める。神が慈しんでくださる。その結果、私たちは壊されて、そして照明を受けて、そして内側から変えられていく。これが14節の言っていることです。
ですから、その上で「あなたがたの神、主への穀物と注ぎのささげ物を」、結果として私たちは、神に一番いいものをお持ちしていく、そのようなものに変えられると言います。
2章の15から17です。
「部屋から花婿を、寝室から花嫁を呼び出せ。」
「神殿の玄関と祭壇の間で、神に仕える祭司たちは泣いてこう言った。『主よ、あなたの民を惜しんでください。』」
この箇所は、最初に シオンで角笛を吹き鳴らせ、そして断食を布告し、清めの集会を招集せよ。
支配神学や霊的戦いの神学を勧めているカリスマ系の教会においては、また、表面的なキリスト教の教会でも、この箇所「角笛を吹き鳴らす」という意味を変えてしまいます。彼らは日本の戦国時代に戻ります。そして、角笛の代わりにほら貝を吹きます。これはイメージです。
日本人にとって、角笛はわかりません。この神学的な角笛の意味を誰も知りません。それは神の裁きの宣告であるということを知りません。
それを日本の戦国時代のほら貝に置き換えて、ほら貝をプォーッと吹いたら、戦いの時が始まった。さあみんな集まれ戦え!となってしまいます。
そして断食を布告する。「断食をしよう!今日から3日間断食をやります!」断食をして何をするのかといえば、その人たちは断食をすることによって神の意思を動かせると思っています。
そして清めの集会をします。彼らは自分たちが自分たちで清められると思っています。
しかし、聖書は全く違います。神はすべてこれを逆に、人間中心主義の人たちが思っていることとは全く真逆に行います。すべて神の業の中で。
また、この箇所においては、ディスペンセーション主義は「悔い改めがイスラエルの国民的行動」と言います。
ここではっきり言えるのは、内面的な真のイスラエルは内面から変えられていくということです。そして偽りのイスラエルは外側です。
2章の18で、「主はねたみ、憐れみ」と書いてあります。
「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分 の民を深く憐れまれた」と書いてあります。この節が転換点です。さばきからあわれみへ移行している。さばきからあわれみ。ここであわれみが出てきます。
今までさばきが続いてきました。そして18で、「ねたむほど愛し、あわれまれた。」
この言葉は、ヤコブとエサウのところでもよく聞きます。
「主はヤコブを愛し、エサウを憎まれた。」
「わたしは憐れむ者を憐れみ、慈しむ者を慈しむ。」
この言葉がここに来ます。すなわち、あわれみへ移っていく原因は神のみです。ほら貝を吹いて祈った彼らでもない。祭司の祈りでもない。言葉でもない。主は、ねたみを起こされ、そしてあわれみを持たれた。このように、裁きからあわれみへの移行は神です。
そして、2章の19から20、神が敵を追い払うところに来ます。
「主はご自分の民に答えられた。『今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油をあなたがたに送る。』
それであなたは満ち足りる。
あわれみの後に何が来るか。神との交わりが開始しています。そしてこの交わりが復活するのは、神が行うからです。
20節。
神は『北から来る者をあなたがたから遠ざけ、それを荒廃した地に追いやる』
この、神が敵を追い払うというのは、主権的介入です。外形だけの契約の民は、そのようには思いません。これはむしろ、自然が回復していくというように考えます。
真の契約の民は、「神が動かれた」と理解します。
そして、ヨエル書の21章~23章に行きます。
21、「地よ、恐れるな。喜び楽しめ。主が大いなることを行われたからだ。」
この21で神が宣言している「恐れるな」というのは、環境改善だとか、危機が終わるということに基づく慰めを言っているのではない。この段階では、神ご自身はまだその理由を明示されていません。
しかし、私たちが見なくてはいけないのは、27節です。27節に神は向かっています。
27節でこう言っています。
「あなたがたはイスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、他にはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」
ここで初めて恐れが消える理由を神は語っています。
それは、「わたしがあなたがたのただ中にいることを、あなたがたは知るようになる。」つまり、「恐れるな」、内側で恐れが消える神の御業は、「神が民のただ中に住む」という臨在の事実です。
21、22、「野の獣たちよ、恐れるな。荒野の牧草は芽を出し、木は実を実らせ、いちじくとぶどうの木が豊かに実る。」
23、「シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主は義の業として初めの雨をあなたがたに与え、かつてのようにあなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。」
22と23は、
この2章の27、
「わたしがあなたがたのただ中にいる」というキリストとの結合の実態がここの27節において描かれています。すなわち、臨在は実による連合、キリストとの結合、聖霊による内住、これが現実となるということです。
そしてこの現実は、恐れを取り除きます。
神の臨在という結合的事実に根差した宣言、それは決して状況や人の感情を根拠としないロギゾマイです。
ロギゾマイ、「栄光の神は私と共にい る。1たす1は2」のように、「神は私と共にいる」。
この理解は、1たす1は2のように決して状況では変わらない。人間の感情でも変わらない。そこには根拠としない。そのように、「恐れるな」という、この神のただ中に住むという事実を、真のイスラエルたちは理解、照明による啓示を受け、そして悟ります。「恐れるな」が成立、成就します。
そして、この大雨、雨が初めの雨。春の雨は収穫の種を蒔く時。そして、終わりの雨は収穫の前。これはこの救いの始め、そして実り、そして刈り入れ。これは信仰義認の恵みと、慈しみによる信仰義認の影です。
24章で、
「打ち場は穀物で満ち、酒ぶねは新しいぶどう酒と油であふれる。いなご、あるいはバッタ、その若虫、神のいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。あなたがたは食べて満ち足り、あなたがたの神、主の御名をほめたたえる。主があなたがたのために不思議なことをされたからだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。」
私たちは、不思議なことをされる神を見ます。
ヨエル書のこの24章、25章、26章、ここは単なる物質的な回復、大きな災いからの回復を言っているのではありません。
真のイスラエルの心の中で起こる神の御業そのものを語っています。その神の御業の、心の中心で起こる救済の構造を説明します。それは5つの段階に明確に示されると、改革神学では語っています。
一つ目は、神は奪われた年々を思い出させる。
多くの災いがイスラエル、選ばれた人たちに来ました。そして、もう一方の偽りのイスラエルたちは滅んでいきます。しかしこの真のイスラエルは悔い改めが起こりました。そして神に導かれて命に向かいます。
神はこう言いました。
「わたしがあなたがたに送った大軍勢」、すなわち災い、苦しみ、そして「わたしが食い尽くした年々」、彼らを使って食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。
試練の時、結合している民は理解していません。何が起きていたのか。なぜ砕かれたのか。なぜ奪われ続けたのか。なぜ祈りが聞かれないのか。そのように、キリストと結合している人たちは思います。しかし、神は言います。
「わたしはあなたがたに償う。」
神が奪ったこの年々、神がそれを返される。つまり、私たちが失っている、失ったその年々、年々は、奪った方は神ご自身、そして神は奪った年々の意味をあなたに照明される。
神は私たちから私たちの年々、年月を奪われ、私たちにまた償う。そして奪った年々の意味を照明されます。
これは人間の思い出しとか、そういうことじゃなく、神の聖霊によってのみ起こる理解だと言います。魂は初めて、奪ったもの、奪われたその年々を、それを奪われた方がサタンではなく主であったと知ります。
その瞬間、信仰者の魂は崩れます。それは感傷だとか、そういったものではなく、神の認識の前で起こる心の崩壊です。それは、私たちの言葉でいうと、礼拝になります。
「神よ、あれはあなたの御手でした。」
この告白は人の謙遜ではなく、照明を受けたものの必然的な反応そのもの。必要な砕きであったという理解が、その照明として与えられる。
理解するのは信仰者ではありません。理解を与えるのは神ご自身であり、その苦しみの年、その奪われた季節、すべてが罪と高ぶりを打ち砕き、キリストと結合している民を立ち上がらせるための神の摂理でした。真理が魂に差し込まれます。
魂に生じるのは屈服ではありません。魂に生じるのは屈服ではなく、礼拝です。人間中心の悔い改めはこう言います。「私は後悔しました。涙を流しました。」しかし、真の悔い改めはそうではありません。神の主権を悟り、魂がひざまずかされて、礼拝に導かれます。感情の高揚とかそんなものではありません。神の栄光と憐れみに圧倒されて、魂はそれに反応します。
そして、そこからは感謝と喜び、平安が心の奥底から湧き上がってきます。心の努力ではなくて、イエス・キリストと結び合っている証拠です。
「わたしの民は決して恥を見ることがない。」
わたしの民は決して恥を見ることがない。これを私たちが頑張ったからではなく、私たちがキリストと結ばれている民だからです。奪われた年を返すのも神であり、そして理解を与えるのも神。恐れを取り去ることも神。喜びを生むのも神。礼拝に導くのも神。信仰者の魂に刻まれる照明の一つ一つは、その結論の一つ一つは、
「すべては神でした。」
「神よ、あなたでした。あなたが私を導き、私を変え、私に喜びを与え、私を礼拝に導く。神よ。」
そして、結合の民は告白します。
「主よ、奪われた年の意味は、私はあの時理解できませんでした。私は自分の痛みしか見えず、あなたの御手を疑い、あなたの道を罵りました。しかし、今あなたが返してくださったとき、私が奪われたものもあなたであったと悟らせてくださいました。あなたが砕き、あなたが照らし、あなたが癒されました。あなたが回復されました。私は今、ただあなたの御前にひれ伏し、あなたの主権と憐れみを礼拝します。」
ヨエル書2章の24〜26は、人が取り戻す物語ではありません。人が悟る物語でもありません。人が泣いて戻る物語でもありません。
これは神が奪い、神が砕き、神が照らし、神が返し、神が礼拝へと導く、結合の民の魂に起こる救済の物語そのものです。
2章の27で神は言います。
「わたしがあなたがたのただ中にいることを知るため。」
イエス・キリストは同じことを言いました。
「あなたがたは、父がわたしの内におり、わたしが父の内にいること。わたしがあなたがたの内にいることを、あなたがたが知るようになるためです。」
祈ります。
「愛する天の父なるお父様、あなたの御言葉を心から感謝します。ヨエル書がこのように、私たちが救いの構造の中にいるということを、教えてくださっていることを心から感謝します。
ヨエル書を深く、深く、私たちが知っていくこともあなたの御心そのものです。私 たちはこの書をこのように読めるような人間ではありません。 私たちはあなたによって変えられなければ、またこのような理解を持つことはできません。すべてはあなたが行われていること。
神よ、あなたです、すべて。
愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。
アーメン
◆2章13節
「心を引き裂け」
人は自分の心を引き裂くことはできない。背後に働くのは 神の砕きの御手。
この節は“内面の熱心”を求めるのではなく、“形式的な外側の儀式(衣服を裂く)だけで済ませる偽の契約民”を裁いている文脈。
一部のディスペンセーション的読みは、これを「イスラエルの一時的な儀式命令」として切り離してしまいやすいが、ここで神が扱っておられるのは、
時代を超える外的契約 vs 真の契約の二重構造である。
神はここで、古い契約下のイスラエルの偽善を暴露し、真の契約民には神の側から砕きを与える、と語っている。
◆2章14節
「もしかすると主は…あわれんでくださる」
これは“もしあなたが悔い改めれば→主があわれむ”ではなく、
「主があわれむなら→悔い改めが起こる」
という意味。
原因:神のあわれみ
結果:悔い改め
福音の秩序を転倒させない。
◆2章15節~17節
断食・祈り・泣き叫びの中心は、神が砕いた者にのみ起こる実。
ここで問われているのは、
「民族的儀式」ではなく、「内面の契約 vs 外側の契約」の二重構造。
◆2章18節
「主はねたみ、あわれむ」
この節が転換点。
裁き → あわれみ への移行の原因は 神のみ。
主がねたみを起こし
主があわれみを注ぎ
民の祈りでも祭司の言葉でもない。
主がねたみを起こされたから。
◆2章19節、20節
神が敵を追い払う。
軍事力・外交ではなく、主権的介入。
古い契約下のイスラエルはこれを“自然の回復”と読むが、
真の契約民は主が動かれたと理解する。
◆2章21節~23節
「恐れるな」は、環境の改善や危機の終わりに基づく慰めではない。
文脈は 2:27 へ向かっており、そこで初めて恐れが消える理由が語られる。
「わたしがあなたがたのただ中にいることを、あなたがたは知るようになる。」(2:27)
恐れが消える根拠= “神が民のただ中に住む” という臨在の事実。
この「ただ中にいる」は、新約でのキリストとの結合の実体の旧約的影となる。
この臨在は:
父による選び
子による結合
聖霊による内住と適用
によって成立する。
◆2章24節~26節
ヨエル2:24–26の回復は、単なる物質的回復ではなく、
結合の民の魂の中心で起こる“神のわざ”そのもの。
その内側の救済構造は、以下の五つの段階に明確に示される。
① 神は“奪われた年”を思い出させる
試練の時、結合の民は理解していなかった。
何が起きていたのか
なぜ砕かれたのか
なぜ奪われ続けたのか
なぜ祈りが聞かれないと思ったのか
しかし、神が“返される”とき、同じ神が “奪った年”の意味を照明される。
これは人の回想ではない。聖霊の照明によってのみ起こる理解。
② 魂は初めて、“奪ったのも主であった” と知る
この瞬間、信仰者の魂は崩れる。
しかしそれは感傷ではなく、
■主権の認識の前で起こる崩壊=礼拝。
「神よ、あれはあなたの御手でした。」
この告白は、“人の謙遜”ではなく、照明を受けた者の必然的反応。
③ “必要な砕きであった”という理解が与えられる
理解するのは信仰者ではない。
理解を与えるのは神。
その苦しみ年、その奪われた季節、
すべてが罪と高ぶりを砕き、結合の民を立ち上がらせるための神の必然だった、という真理が魂に刺し込まれる。
④ 魂に生じるのは “屈服” ではなく “礼拝”
人間中心の悔い改め:
「私は後悔しました、涙しました。」
聖書的悔い改め:
神の主権を悟り、魂がひざまずかされ、礼拝へ導かれる。
感情の高揚ではない。
神の栄光とあわれみに圧倒された魂の反応。
⑤ 感謝と喜びは、心の努力ではなく“結合の証拠”
2:26「わたしの民は決して恥を見ることがない」
これは「あなたが頑張ったから」ではなく、
■“結合の民だから”。
奪われた年を返すのも神、理解を与えるのも神、
恐れを取り去るのも神、喜びを生むのも神、礼拝へ導くのも神。
信仰者の魂に刻まれる照明の結論はひとつ。
「すべては神でした。」
◆【結合の民の告白】
主よ。
奪われた年の意味は、私はあのとき理解できませんでした。
私は自分の痛みしか見えず、あなたの御手を疑い、
あなたの道をののしりました。
しかし今、あなたが返してくださったとき、
あなたが“奪われたのもあなたであった”と悟らせてくださいました。
あなたが砕き、あなたが照らし、あなたが癒し、あなたが回復されました。
私は今、ただあなたの御前にひれ伏し、
あなたの主権とあわれみを礼拝します。
ヨエル2:24–26は、
人が取り戻す物語ではない
人が悟る物語でもない
人が泣いて戻る物語でもない
これは、
■神が奪い
■神が砕き
■神が照らし
■神が返し
■神が礼拝へ導く
結合の民の魂に起こる救済の物語である。
◆2章27節
章の中心:
「わたしがあなたがたのただ中にいることを知るため」
裁きも回復も目的はこれ。
古い契約下のイスラエルは裁きの現象だけを見て悔い改めないが、
真の契約民には キリストとの結合がはっきりと見える
神の臨在の現実が照明によって開かれる。
◆2章29節、30節
ヨエル2:28–29 は:
ユニバーサリズム否定(対象=真のイスラエルのみ)
異言の誤読を否定(現象ではなく救済史)
霊の注ぎ=賜物ではなくキリストの内住
体験ではなく “教会誕生” の日
力ではなく “結合の適用”
現象ではなく “臨在の革命”
これが本体。 これを語らなければ、福音ではなくなる。
◆2章30節、31節
宇宙のしるしも、神がご自身の現れを示す手段。
◆2章32節
「主の名を呼ぶ者は皆救われる」“呼ぶ”の主体は神が造る。
再生
照明
悔い改め
信仰
すべて神が流れとして与える。
◆2章まとめ
2章は
裁き → 砕き → 照明 → あわれみ → 回復 → 御霊注ぎ → 救い
という救いの全構造を神中心で描く。
どの段階も原因は人間ではなく、神。
“キリストとの結合”が源泉であり、
古い契約下のイスラエルは裁きの中で滅び、真の契約民には光が差す。
ヨエル2章の中核は、
「主の日が迫り、聖なる神が
古い契約下のイスラエルを裁き、
選びの民の心の中心に光を刺し、
悔い改めを実際に生み出し、
ご自身のねたみと憐れみによって回復を行われる」
という 完全に神主語の啓示。
ここに人間中心の要素は1ミリもない。