ヨエル書 2章 前半

ヨエル書2章 前半
今日はヨエルの2章に入っていきます。まずヨエルの1章の一番重要なところを、もう一度説明してから入っていきます。
1章の核心部分は、聖なる神が形骸化した信仰によって生きている人たちを揺さぶっているということです。
宗教的な形だけの礼拝を止めさせ、滅びに向かわせます。
しかし神は同時に、真に選ばれた者たちの心の中心を照らし、悔い改めを生み出す。
これがヨエル書1章の裁きの始まりであり、ヨエル書1章では「主の日(神の到来)」のスタートが語られています。
ここで、誰が悔い改めるかを決定されているのは主であり、どの心に光を射すかを決められるのも主であることがわかります。
人間中心の祈りや決心ではなく、神が裁き、神が照らし、神が叫びを生じさせてくださる。
ここで書いてある命令形は、未信者、またはキリストに属さない人たちは外側からの強制のように読みます。ですから、読んでも理解できず、ただ「自分が何かやらなければいけない」と受け取ります。
しかし、選ばれて再生した者たちは、神の命令が“自分が行いたいこと”に内側から変えられていく。
これが1章の核心です。
そして今からヨエルの2章へ入っていきます。
■ヨエル書2章の全体構造
ヨエル書2章は、
裁きも、悔い改めも、回復も、霊の注ぎも、そのすべてを神ご自身が行う。
• 2:1–11 神ご 自身が軍勢を率いて「主の日」を近づけられる
• 2:12–17 主が民の心を引き裂き、悔い改めを生み出す
• 2:18–27 主が妬みと憐れみを起こし、回復を実行される
• 2:28–32 主が全ての人に霊を注ぎ、「結合の民」(キリストと一体の真のイスラエル)を誕生させる
特に28節以降は、聖霊の内住の開始を示す。
旧約において内住は起きておらず、ペンテコステの日から初めて教会という神の共同体が歴史に誕生した。
■学ぶ目的
今日、私たちは、「何をすべきか」を見るために学んでいるのではない。主が 何をされるかを見るために学ぶ。
ヨエル2章は、神の絶対主権と、選びの民への有効呼びかけを最も明確に示す章。
すべての人は外的には御言葉を聞くが、選ばれた者は“内なる悟り”として理解する。これが改革神学でいう「有効呼びかけ」。
■2:1 角笛を吹き鳴らせ
「シオンで角笛を吹き鳴らし、私の聖なる山で時の声を上げよ。地に住むすべての者は震えよ。主の日が来るからだ。その日は近い。」
一般福音派・カリスマ派は、「備えよ・立ち上がれ」と読むが、聖書の意味は逆。
角笛は、人間の備えの号令ではなく、神の裁きを告知する合図。神が来られるのであって、人が立ち上がるのではない。
出エジプト19章
→ 神がシナイ山に降られたとき角笛が鳴る。神側の合図。
ヨシュア6章
→ 民の力の合図ではなく、神がエリコを崩す合図。
アモス3:6
→ 災いを起こす主体は神。
ゼカリヤ9:14
→ 週末の神の到来の合図として神が角笛を吹く。
最終的には、キリスト再臨のラッパ(角笛)である(1コリ15:52、1テサ4:16)。
つまり、角笛=神の行動宣言。人間の号令ではない。
日本のキリスト者が誤解する理由:戦国時代の「法螺貝」の影響で、角笛=“立ち上がれ・突撃せよ”のイメージになってしまう。これはカリスマ的演出であり聖書的意味とは無関係。
■命令形について
ヨエル書の多くの箇所は命令形で書かれている。しかし命令形は「できる」という意味ではない。
未信者は命令を「外側の律法」として受ける。再生していない者には従う力がない。
しかし真のイスラエル(選ばれた者)は、「主よ、私はできません。助けてください。」
と心の深部に生じ、主がその心を変え、命令を成就させる。
命令に従えるのは、人間の意志ではなく、神の内なる照明と創造の御業のみ。
■裁きの4段階(いなごの比喩)
1. かみ食らういなご(外側の繁栄を食い尽くす)
2. 移住するいなご(群れを成して徹底的に食いつくす)
3. バッタ(芽を破壊し、再生可能性を絶つ)
4. 若虫(生命力そのものを絶ち、未来を奪う)
これは霊的戦いではない。神が外側の契約民を裁く歴史的現実を示す。
同じ裁きの中に、真のイスラエルと偽りのイスラエルが混在する。
試練は
• 選びの民には命に向かう照明
• 偽りの民には滅び
を生じさせる。
■2:11–13 「帰れ」「心を引き裂け」
人間中心主義・ディスペンセーション主義は「自分で決心して主に帰れ」と読む。
しかしこれは誤り。
聖書は人には帰る力がない(エペソ2:1)。
「帰れ」は、神が砕き、照明を与えられた者だけに“現実として生じる帰還”であって、
人間の意思では決してできない。
主はご自分の軍隊の先頭に立って声を上げられる。
その陣営は非常に大きい。
主のことばを行う者は強い。
主の日は偉大で非常に恐ろしい。
だれがこれに耐えられようか。(2:11)
この恐るべき裁きのただ中で、
「しかし、今でも──主のことば──
心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」(意)
これは、「自分で決心して帰れ」ではない。
神が
• 試練で砕き
• 自分の底に追い込まれた者に
• 照明を与えられる時
砕かれた者のうちに、
“主に帰るという現実”が創造される。それを新しい創造と言う。
「心を引き裂け」
→ 人には自分の心を引き裂くことは不可能。最後に働くこの「引き裂き」は、神の砕きの御手のみ。
人は自分の心を守るために自殺さえ選ぶが、自分の心そのものを引き裂くことはできない。
心を引き裂くのは、神が御手をもって砕かれるときだけ。
■まとめ
• 角笛:人の号令ではなく、神の到来と裁きの合図
• 命令形:人間にできる前提ではなく、「神が照明と新しい心を創造するとき成就される約 束」
• 真のイスラエル:同じ裁きの中で砕かれ、照明を受け、主に帰る現実が「創造」される民
• 偽りのイスラエル:同じ裁きの中で、神を恨み、偶像へ走り、滅びへ向かう民
■祈り
愛する天のお父様、
私たちは自分の心を引き裂くことはできません。
主よ、あなたの命令は私たちには従えません。
しかし主よ、あなたは私たちの心を創造される方です。
そうです。神が砕きと照明を与えられる時、砕かれた者にはあなたに帰る現実が生じます。
創造宣言の書を感謝します。
あなたがこのヨエル書を通して、私たちに与えておられる創造の素晴らしさを、このように教えてくださっていることを心から感謝して、
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
◆2章1節
「角笛を吹け」
一般福音派・カリスマ派は“備えよ”“立ち上がれ”と読みがちだが、聖書の意味は逆。
角笛は、人間の準備の号令ではなく、神が裁きを告知する合図。
神が“来られる”のであって、人が“立ち上がる”のではない。
聖書が言う「角笛」とは何か
角笛(ショーファー)は、人の備えの号令ではない。神が到来し、神が裁きを開始する宣言である
旧約全体で角笛は:
神ご自身が臨在される時の“神の側のシグナル”
出19章:神がシナイ山に降りてこられたとき角笛が鳴る
→ “人が準備した”のではなく
→ 神が山に降りられることを告知する合図
神の裁きが始まる宣言
ヨシュア6章:角笛は民の力の合図ではなく
→ 神が城壁を崩す合図
アモス3:6
「町で角笛が吹き鳴らされて民が震えないだろうか。
災いをもたらすのは主ではないか。」
→ 角笛=災い(裁き)を起こす主体は主
終末の神の到来の合図
ゼカリヤ9:14
「主は角笛を吹き鳴らされる」→ 吹き鳴らすのは神ご自身
最終的にはキリストの来臨のラッパ
Ⅰコリ15:52
Ⅰテサ4:16
→ 神が来られる合図であり、人が備える号令ではない。
ヨエル2:1の意味
「角笛を吹け 」=
“人が行動を開始する号令”ではなく、神が裁きを告知し、神が民を揺さぶる宣言。
だから意味はこうなる:
神が選ばれた民の中に働き角笛を吹くので、角笛を吹けと命令され、それは成就する。
神が裁きを“開始する”
神が山に“来られる”
神が民を“震え上がらせる”
神が外側の契約民を“ふるいにかける”
神が選びの民に“照明を与える”
神が悔い改めを“生じさせる”
人が立ち上がるのではなく、神が立っておられる。
なぜ命令形なのか?
命令形=「人の自由意志の指示」ではない。
再生前の者
外側の命令として響く
従えない
裁きの宣言として作用する
→ 神がその者を裁きに引き渡す
再生された者
神が内側で働き
照明を与え
悔い改めを生じさせ
→ 命令そのものを“神が成就させる”
だから、「吹け」という命令は“人間中心の準備”ではなく、
神が“裁きを公示せよ”と歴史の舞台に掲げさせる命令であり、
その実行も神が支配している。
正しい福音構造
【誤】「角笛=人が備える号令」
→ 決心主義
→ 霊的戦い神学
→ そべての人間中心主義(主語が人)
【正】「角笛=神が裁きを告げる合図」
→ 主語=神
→ 裁きも悔い改めも“神が起こす”
→ 結合の民は神の照明によって叫びに導かれる
→ 外側の契約民には裁きとして響く
◆2章2節
「暗黒と闇の日」
心理状態の比喩ではなく、神の臨在が怒りとして現れるときに起こる宇宙規模の反応。
これは黙示録の情景でもある。
◆2章3節
「その前はエデンの園のよう、後ろは荒野」
神が祝福を与えればエデン。神が撤回すれば荒野。人間の行いによる転換ではなく、神が与えるか、奪うかの違い。
◆2章4節、5節
いなご軍勢の統率と速度は自然現象では不可能。
神が軍隊として組織した動き。
◆2章6節
「顔が青ざめる」
心理ではない。神の臨在の重さに肉体が耐えられない現象。旧約でも新約でも、神の栄光が現れると人は倒れる。
◆2章7節~9節
彼らの進撃の規律は軍事訓練の比喩ではなく、
創造主が命じた裁きの秩序。
家屋に入り、壁を登り、抜け目なく進むのは自然の虫では説明できない。
◆2章10節
「大地は震え、天は揺れる」
創造界全体が創造主の裁きに反応して揺さぶられる。気象現象の説明ではなく、創造秩序を神が用いて裁きに転じている。
◆2章11節
「主がその軍勢の先頭に立つ」
いなごは“自然災害”ではない。神が指揮官として立つ 神の軍。災害の主体は気候ではなく、神。
◆2章12節
■ここが“人間中心主義”と“ディスペンセーション的誤読”の大きな分岐点
「心のすべてを尽くしてわたしに帰れ」
福音派・カリスマ・信仰の言葉運動・ディスペンセーション的解釈は、
“自分の心を決め直し、主に立ち返れ” と読む。
しかしこれは、根本的に人間中心で、聖書の救いの構造に矛盾する。
◆正しい読み(神中心)
“帰る”力は人にはない。
罪人の心は霊的に死んでおり(エペソ2:1)、
神が再生し照明を与えなければ誰も主に帰ることはできない(ヨハ6:44)。
だからここは
「命令形=人間に可能だから」ではなく、
「神が砕きと照明を与えられるとき、砕かれた者には帰る現実が生じる」
という 創造宣言 である。
◆2章13節
「心を引き裂け」
人は自分の心を引き裂くことはできない。背後に働くのは 神の砕きの御手。
この節は“内面の熱心”を求めるのではなく、“形式的な外側の儀式(衣服を裂く)だけで済ませる偽の契約民”を裁いている文脈。
一部のディスペンセーション的読みは、これを「イスラエルの一時的な儀式命令」として切り離してしまいやすいが、ここで神が扱っておられるのは、
時代を超える外的契約 vs 真の契約の二重構造である。
神はここで、古い契約下のイスラエルの偽善を暴露し、真の契約民には神の側から砕きを与える、と語っている。
◆2章14節
「もしかすると主は…あわれんでくださる」
これは“もしあなたが悔い改めれば→主があわれむ”ではなく、
「主があわれむなら→悔い改めが起こる」
という意味。
原因:神のあわれみ
結果:悔い改め
福音の秩序を転倒させない。